空前絶後のブログ

「このようなブログを今後、我々が読むことは恐らくかなわないでしょう」-ヒラリークリントン-

『桐島、部活やめるってよ』のネガティブな考察と「桐島」のなり方

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 ハイパー超絶今更だけど映画、「桐島、部活やめるってよ」の感想を書いていこうと思います。

 それも最近観たとかじゃなくて観たの1年以上昔なんですよね。単にブログ始めたし書いてみるかー程度の話なんですけども。なのでかなりうろ覚え。「考察がどうこうの前にそもそもこんなシーンねえよ!」ってなったら本当にごめん。マジでごめん。

 あらすじをパパっと解説すると、桐島という高校生がいて、彼は何でも出来るみんなのヒーローで、輪の中心にいるような人物。その彼がある日、バレー部を辞め、学校からも突然消えたことで起きる群像劇・・・という感じです。それだけ?って思うかもしれませんが・・・うーん、とにかく観てみてください。いい映画なので。

 んでタイトルの『「桐島」のなり方』ってなんだよ?って感じだと思いますがそれはおいおい・・・。ネガティブな考察とつけたのは、まあ桐島という映画自体が色々な解釈の余地のある映画なんですけど、町山さんという評論家の方がされていた考察を読んで、自分のに比べてとても前向きだなあ・・・と感じたから。

町山さんの解説。必見です

http://matome.naver.jp/odai/2137564779420535801

 桐島という映画は、高校生という生き物を非常にシビアに、克明に写しとった映画だと思います。なので逆に言うと、観る人によって感想とか考察は大きく変わると思うんですね。町山さんの考察が希望的で(相対的に)俺の考察が後ろ向きなのはまあそういう事なわけですよ。それでもよいよーって人はどうぞお読みください(注:ネタバレありです。というか観た前提で説明無しで語ります。まだ観てない人は気をつけて)。

  まず、桐島という映画は高校生の「ヒエラルキー」を描いた映画だと俺は思っています。これに関しては多かれ少なかれ、みんなそういう要素を感じているんじゃないでしょうか。

 男のヒエラルキーは桐島を頂点に、そこそこ何でもできるイケメンの菊池。その二人と放課後ダラダラ遊んでいた寺島と友宏の4人。女側はというと、桐島の彼女である飯田を頂点に、東原、野崎、ギリギリ同じグループにいる宮部の4人。そしてこの映画、中間層がでてこなくて(確か)、その底辺の象徴が映画オタクの前田です。

 それに加えて、ドラフトを諦めない野球部のキャプテン、桐島が抜けたことで苛立つバレー部の副キャプテン等が出てきます。他にも重要な登場人物いただろーが!って人もいるかもですが、俺の考察に必要な人だけ出しています。逆を言うと、やっぱり俺の考察は映画を包括出来ていないんのかもしれませんが・・・

 で、俺がまず「この映画面白いな!」と感じたのが野崎の配役と演技です。野崎というキャラは、まあ一言で言えば嫌な女であり、他者を見下し陰口を叩きイジメを主導するようなタイプです。一方でイケメン菊池と付き合っていることに優越感を抱き、自慢することに余念がありません。

 その野崎役の女優さんの演技が素晴らしくて、野崎が高圧的な態度を取る一方で、実は自信が無いんだな、ヒエラルキーのトップグループから脱落するのが怖いんだな、という事がひしひしと伝わってくるのです。

 飯田と東原はナチュラルメイクで、いかにも正統派の美少女!という感じに仕立てています。一方で野崎はわざと、「すごいメイク頑張ってます!」って感じになってるんですね。持ち物もジャラジャラしていて、いかにもというか。

 それがヒエラルキーというものをリアルに表現していて、自動的に頂点に配属される人とそれについていこうとする人の悲哀をうまく切り取っているなと。

 じゃあ東原や飯田は生まれながらの勝ち組なのか、というと実はそうではなくて。東原さんは余り気が強いタイプではなく、内向的で映画が好きなタイプとして描かれています。だからトップグループにいる間も実は気が休まってなくて、シビアな立ち回りを要求されているように思えました。実は彼女は寺島と付き合っているのですが、その事を友人含め周囲に隠していて、それがこのことを良く表していると思います。

 んで飯田についてはひとまず後回しで、男側についても考察していきますね。まず面白いのは寺島と友宏。彼らは桐島と放課後、バスケして遊んでいたんだけど、彼が消えてそれを失います。結局話の終わりまでダラダラ「今日なにしよっか~」って言ってるんだけど、つまり彼らは桐島に凄い依存してたわけですよ。

 俺は思うんですが、これは「桐島」を「学校」とか「仕事」に置き換えても同じではないでしょうか。それまで疑問も持たず従ってきたことが消えたら「じゃあ何するの?」ってなるじゃないですか。目標を周囲に流されずに持つって、実はとても難しいのです。

 この視点で見ると二人のキャプテンも同じだと思うんです。バレー部のキャプテンは次の大会で優勝することに必死。桐島が抜けた穴を何とか埋めようとしている。代わりに桐島のポジションに入った部員は力不足でイライラしています。最後のシーンでは桐島がいたと聞いて飛んで行くも誰もおらず、発狂してます。つまり彼は桐島やキャプテンというポジションに振り回されているんですね。

 同じことが野球部のキャプテンにも言えて、彼は恐らく無理であろうドラフトのために引退せず待ち続けています。それが周囲からはイタがられているわけですが、本人は希望を捨てきれない。彼もまた、目標を見失っているというか、行動しないことを選択しているように見えるんです。

 そのことに関して自覚的に悩んでいるのが菊池です。彼は自分の目標が無い事を悩んでいて、だから物語終盤で前田が楽しそうに映画を撮っている姿に感動するわけですね。前田が映画を撮ることが楽しいといって、菊池が「かっこいいよ」と泣きながら呟くんです。

 で、大体この「菊池が前田に感動した理由」で多くの考察が終わるわけですが、俺は何だか納得できませんでした。何でかって、前田の趣味が映画撮影じゃないですか。ヒエラルキーを主題にした映画で前田の趣味が映画撮影っていうのがひっかかるんですよ。

 まあぶっちゃけて言うとオタク=キモいみたいな、=非リアみたいなのあるじゃないですか(今はちょっと違うみたいですが・・・)。非リアだからオタク趣味に走るのか、オタクは非リアになりやすいのか、そこはまあ分かりませんが、俺はこの映画が前者を主張しているような気がするのです。

 つまりね、前田は映画好きだよとか言ってるけど、ヒエラルキーの産物だよと。もっと筋力とコミュ力あったらバレー部のキャプテンやって屋上で発狂していたよと。身も蓋も無い言い方だけど、俺はそういう感想を抱いてしまいました。

 飯田に話を戻すけど、彼女は桐島と付き合っていました。恐らく男女のヒエラルキートップで言えば、桐島と飯田です。だから飯田と桐島が付き合うのは、飯田にとっても周囲にとっても当然の帰結だったと思われます。しかし桐島は消える際、一切彼女に告げませんでした。その事に彼女は傷つくのですが、この不幸は何故起きたのか。

 恐らく、飯田にとっては自覚があるにせよ無いにせよ、ヒエラルキー的に当然の事だったのです。それは桐島にとっても同じ。それがある時変わった。桐島はヒエラルキーから脱却し、だから姿を消した。

 これは勝手な想像ですが、桐島にとって、目標の達成と普通高校に通うことが線で繋がらなくなった。だから消えたのではないでしょうか。

 まとめると、人間の性格とか趣味思考は全てヒエラルキーの産物です。しかしそこから脱却し、自由に行動することが出来るようにもなります。この映画が言いたいのはそういう事かなと俺は思います。

 じゃあ桐島は何故、脱却できたのか。それは桐島がヒエラルキーのトップに至ったからに他なりません。なぜなら、バレー部員や友宏、彼女・・・彼らヒエラルキーに追従する側からされる側に立って、初めて自己決定性を求められるわけですから。

 じゃあどうやったら桐島になれるんだよ。ヒエラルキーのトップとか無理だろって人のために俺なりの方法を送ります。これが書きたかったのですが長々とすみません^^;

 んでその方法ですが、ズバリ引きこもることです。

は?(威圧)

って思われた方、ごもっともですが待ってください。つまりね、ヒエラルキー=社会集団に属している限り、そこから自由にはなれないわけですよ。でも引きこもっていれば1人中1位!トップなわけです。

 いやこれ結構まじめな話で、一度誰にも関わらない生活するって大事よ。俺が自分探しの旅とか馬鹿にならないと思ってるのはそういう理由。なので学生の方は大学あたりで一年休学してみましょう。社会人の方は・・・ブラックなら辞める、ホワイトなら休みにそういうことを意識して休んでみるといいんじゃないかなと思います。

長文失礼しました。

 

桐島、部活やめるってよ (本編BD+特典DVD 2枚組) [Blu-ray]